瞑想

120.瞑想と悟り その②

その②
ここまで書いて、約30年前に聞いた呉中先生の言葉が思い出されます。
「練習のレベルは自分の言葉、思い、行動と一致しています。」
当時、その言葉は心に響きました。
同じ事で、悟りを開くと、言動、思考にそれなりに変化がでてきます。

「一度悟りを開いたら、今後は迷う事がない。」という良く知られている言葉があります。現実では、悟りの中には大きな悟り、小さい悟り、長い悟り、短い悟りなどがあります。例えば同じ悟りを開いたと言っても、六祖慧能(禅宗六代目伝人)は五祖に「悟りを開いた後は自分で自分を導きます。」と言いました。慧明は六祖慧能の指導で悟りを開いた修行者ですが、六祖に「それ以外にまだ秘密にしている功法が有るのではないですか?」と言いました。というのは慧明はまだ先生に依存する気持ちが残っています。一方で六祖慧能は自分でこの安定した状態を維持することを信じています。
慧明の悟りは大きな悟りとは言えません。大きな悟りは徹底した悟りと言えます。

同じ悟りを開くといっても、安定した悟りかどうかには違いがあります。
生活の中で色々な事が起きても、続けて安定した悟りを維持していくことが大事なのです。ですので五祖は六祖慧能に、「悟りを開いた後の状態をよく守って、すぐには人に教える事をしないでください。」と言いました。

ここで特に強調したいのは、いくら悟りを開いた人と言っても、まだ普通の人間で、喜怒哀楽、七情六欲があります。ただし悟りを開く人は自分が落ち着く環境を作る事ができます。自分は良い環境の中で穏やかに過ごしています。ただ環境が変わって、煩わしい環境が強すぎる場合は、穏やかな気持ちが少なくなり、消えてしまう事もあります。或いは何日か睡眠がとれない場合や、極度の緊張が続いた場合など、人間の限界を超えた場合には、いくら悟りを開いたと言っても、人間ですので、精神が崩れてしまう事があります。

悟りを開いた人を神様や聖者として崇拝(盲信)する人達が多いですが、それは自分の悟りにも良くないですし、悟りを開いた人にも良くないです。
盲信すると他人任せで、自力で自分の心を整えて良い状態を維持する気持が無くなって、依頼心が強ければ強い程、悟りから離れます。
特に最近の数十年では、練習が良く出来た人達を崇拝(盲信)する人が大勢でてきて、その崇拝(盲信)の雰囲気の中で、良く出来た修行者の人格が落ちる事があります。

有名な例としては数年前、中国仏教協会の当時の会長であった学誠法師という人が、自分の権威を利用して、女性修行者に性的嫌がらせを犯しました。また、それを公に指摘した人達を弾圧しました。
中国仏教協会会長というのは仏教界では最高権威者で、余程の苦行を重ね、悟りを開いた特別の修行者でないとこの地位にはつけません。学誠法師は当時、仏教を熱心に勉強し、苦行も重ねた人で、著書も多く、良い内容で大変尊敬された法師でした。そのような人物でも上記のような悪事をおかしました。
なぜならば、権力をもった結果、環境が変わって、大勢の人から崇拝され、自分を制限するものは何もないと思ったからです。
このように一旦悟りを開いたと思っても、崩れてしまう事もあるのです。

つまりいくら悟りを開いたと言っても人間は人間です。人間には欠点もあり、限界もあります。悟りを開いたと言ってもこの安定感を維持するため、続けて練習していかなくてはなりません。
悟りを開くというのは超能力という意味ではなく、総て物事が分かるという事ではありません。悟りを開いたら科学は不要という事でもありません。悟りを開いた人は全能の人ではありません。
悟りを開いてもごく普通の人間で、知らないことも沢山ありますし、物事の判断を間違う事もあります。

悟りを開くことは修行の一つの目標ですが、その目標を山頂に例えると、山頂に到達しなくても得る事は沢山あります。このような瞑想を続けると体質が改善され、心が落ち着いて、以前より人生を楽しく過ごせるようになります。
練習すればするほど好きになって、中毒のように、離れられなくなるような感覚があります。日常生活の中でいつも瞑想の事、あるいは気持ちが落ち着く事を考えています。そのなかで注意することは、迷信や超能力を追求してはならない事です。邪道や外道にそれてしまいます。邪道は社会に良くない影響を与える道で、外道は目標から離れて練習することです。練習の間に様々な感覚や現象が起こっても、それにとらわれず、穏やかな気持ちを探していくことが練習の大事なポイントです。

練習に迷った時に、実際に修行して体験している指導者が側にいると助けになるでしょう。大事な時期に教えて貰えるとずいぶん違います。
指導者は細かい所まで見守ってあげるか、場合によっては大きな声で叱るかもしれません。教え方の違いは修行者の練習の状態や素質によります。

119. 瞑想と悟り その①

「瞑想と悟り」  その①               

ここで言う悟りとは、瞑想を通して良い体験を得た後、自分の考え方や志が昇華することです。或いは年月をかけて常に瞑想すると、「天神合一」後、心境が変わる事です。

正しい瞑想は登山と似ていて、高く登れば登るほど、風景が美しくなります。山頂に着けば、眩しい雲海の中に、山峰が幾つも島のように浮かんで見えて、気持ちが和らいで、無心になり、純粋になります。この状態を長く続けていくと、自分の人生観や考え方が変化します。悟りというのは、雄大で美しい大自然に囲まれた時のように、認識や心境が変わる事です。

この認識の変化は、基本的には徐々に起こりますが、突然に感じる事もあります。突然に変化したと感じても、実際は長年の訓練の結果です。
突然の変化は瞑想している時に起こる事もありますし、日常生活の中で、刺激を受けて感じる事もあります。
この段階の瞑想というのは、わざわざ時間を取って座って瞑想する事だけではなく、日常生活も瞑想という事です。つまり常に気持ちの事を意識しています。
日常生活の中の刺激というのは、例えば、叩かれた時や、或いは何らかの刺激を受けた時などで、瞬間的に悟る事があります。
この突然の悟りは、飛躍的で、本質は感覚から離れて、非常に穏やかで落ち着いた気持ちを認識することです。

禅宗、「楞厳経(りょうごんきょう)」、密宗の中に、悟を開く例が沢山記録されています。
例の一つに、先生と弟子が山中の洞窟で練習していたある夜、名月が出ていて、大地が静かでした。その時、先生が弟子に「貴方はいつも最高レベルの瞑想求めていますね。今それを伝えるとしたら、その準備は出来ていますか?」と問いました。
弟子はそれを聞いて「長年望んでいたことがやっと実現します。」と喜び、心を整えて落ち着いてから「はい、準備が出来ました。」と答えました。
「ご覧、あれは何ですか?」と先生は名月を指さしました。「月です。」と弟子は答えました。すると先生は「もう伝えてあげました。」と言いました。

もし私達がこの話を聞くと、先生は冗談を言ってると思うでしょう。
しかし、弟子はすぐ分かりました。名月の下に山脈の尾根の輪郭が連なり、森林が広がり、大地が静かで、夜空が明るい景色の中にいると、非常に落ち着いて、リラックスした気持ちになっていました。その気持ちさえあれば、他に求めるものは何もないでしょう。ここでの大事で微妙な一歩は、良い景色と融合する時、自分の心の状態を見て、その穏やかな気持ちを重視することです。人生はその気持ちを持って過ごしていけば、最高だと分かる事です。

その弟子は今までに何度も名月の夜を見ていたのに、その時まで気づかなかったのは、景色のみに心が奪われていたからです。ですが、今、その時になり、突然、景色とは別の穏やかで落ち着く気持ちがある事に気づいたのです。
その時の体験はどのような言葉で説明してもかまいませんが、同時にどんなに説明してもしきれません。これは以心伝心なのです。

悟りを開いても、また、通常の生活に戻って、様々な事が起きても、修行の機会として、練習を続けなくてはなりません。
悟りを開いたら、物事に対しての考え方が異なってきます。ようするに人生観が変わります。名誉、損得、喜怒哀楽、などについては関心が少なくなって、代わりに穏やかな気持ちを守る事だけを一番大事にするようになります。それに従い、物事に対する態度が変わります。より優しく、平常心で人と接するようになります。

118.養生禅について

禅は禅那、禅定、静慮(せいりょ)、思維修などいろいろな呼び方があります。
禅の源の一つは、紀元前1200年~1000年の間に生まれた、インドのボロモン教です。
当時、ボロモン教の貴族たちは老いてくると、財産を子供に譲り、自分は森林に住まいを移して、心を静かにする訓練を通して人生は何かという事を過ごしていました。その時期を林住期といい、その訓練を禅、あるいは禅定といいます。

 

仏教はボロモン教の影響を深く受けて、禅の訓練は仏教の主な訓練の方法になりました。
東漢年間(およそ紀元前67年前後)に、禅定は仏教と共に中国(中原-今の西安の近辺)に伝わりました。考古学では道教文化にも大きな影響を与えたという考察も見られます。
道教文化の源流の一つは、仙人になるという修行(修仙)の方術があります。この修仙の方術は中国の禅定という事です。
ですので、中国の禅、あるいは禅の修行は、主に古代インドと道教が源です。
この二つの源は互いに中原大地でぶつかって、融合して、儒教、仏教、道教の発展に大きな影響を与えました。

 

禅定は、仏教の悟り、基石となって、道教の仙人になる、あるいは、精(身体の中で一番良いもの)、気(身体のエネルギー)、神(精神状態)を鍛える根本的な方法です。
禅定は仏家の浩然の気、あるいは修身養性の基本の修業法です。

 

禅定の歴史は長いですが、明確に養生目的で禅定を行う歴史は短いです。現代では養生目的で禅定を行う事が求められています。養生目的で禅定をすることで名を知られている人は、中国道教初代会長、陳嬰寧先生です。

 

1950年代に劉貴珍先生は、北方の気功療養院に気功療法(禅定療法も含めて)を取り入れました。これは初めて広範囲に養生目的で禅定を行った事と言えます。残念な事には様々な原因から短期間で停止されました。

 

1980年代に気功大ブームがおこり、養生目的での禅定が再び世間に重視されるようになりました。しかし残念ながら暫くすると、養生目的の禅定は、宗教、迷信、超能力等の方向に行ってしまう事となりました。現在では養生目的で禅定しようとしても、宗教の真似や、深さが無いといわれ、軽蔑されたりします。
でも養生目的で禅定をする事は、現代社会においては必要になると思います。

 

というのは、現代社会は発展スピードが速くて、変化も早いです。忙しい社会で生きる我々は、考える事、情報を整理する事、変化する環境に対応する事など、さまざまに関わる事が複雑になって、生理的に対応しきれないでいます。その為に心身の病が増加しています。
ある統計によると、日本では2017年時点で精神疾患患者数は400万人を超えると言われています。

 

禅定を修行すると心身共に緊張感を開放してリラックスし楽になります。これは身息意気神などの要素を整えてリラックスする方法です。ここで養定禅をまとめて一つの言葉で表すと、養定禅は養生の為に禅定を行う事です。これは現在生きている自分の心身、肉体と精神の健康の目的のための禅定法です。
宗教や魂、来生、天国、地獄などの概念とは一切関係ありません。

 

ですので、養生禅は科学と自然に沿っているものです。
例えば、心身共に病がある場合には、魂や幽霊などの影響などと考えないで、医学的見地から判断しましょう。同様に健康になった場合も医学的基準から判断しましょう。

 

養生禅の特徴の一つ目は、宗教や神秘的な事とは関係なく、魂や来世、天国や地獄等とは関係がありません。

 

二つ目の特徴は科学と自然にそっているものです。
例えば精神的プレッシャーがあると医学的にも反映されます。瞑想するとリラックスすることが医学的にも証明されています。瞑想するとドーパミン、エンドルフィン、セロトニンなどの物質が分泌される事も証明されています。

 

三つ目の特徴は、何千年の瞑想の実際的経験を大事にしている事です。いくら科学が発達したといっても瞑想時の貴重な体験には、科学技術やデータが反映されていないところもまだあります。例えば、持身法や奇景八触、離体意識、時空間を超える、天人合一等々。これらの瞑想中の色々な体験は、貴重な宝物として、健康と科学とどうかかわるかを研究するべきです。

 

四つ目の特徴は、養生法の一つなので、自分の感情を抑えるという事を目標の一つとして練習することはありません。長い歴史の中で感情は瞑想と対立して邪魔なものとして見られてきましたが、養生禅の立場から見ると、人間は欲と感情を持っている事は当然の事です。いくらよく瞑想をしても喜怒哀楽を消すことではありません。ただし練習すると穏やかになる事は間違いありません。

 

五つ目の特徴は、練習の結果が良いか悪いかの判断は心身共に健康になる事だけです。例えば連続数日に渡って瞑想する事は大変な事ですが、そのあと、自分で歩くこともできないほど身体が衰弱してしまっては、良い瞑想とはいえません。瞑想して色々な神秘体験があれば、すごいように思えますが、精神的にバランスを崩すのは養生法の目標から離れてしまいます。

 

六つ目の特徴は日常生活と合わせて行う瞑想法だという事です。
瞑想のある段階になると、一人になりたい、社会から離れたいという気持ちが強くなりますが、養生法からみると、その気持ちを克服して生活と融合しながら瞑想していくことが基本的なポイントです。その意味で、瞑想をよく練習していくと、より普通の人間になります。もっと誠実、地味、信頼できるという性格になります。

 

七つ目の特徴は動功と静功をバランスよくとっている瞑想法です。動功は背骨で全身を動かすという有酸素運動で、劉漢文先生の教えの功法です。以上で養生法の特徴を大体述べました。ゆっくり体験して理解しましょう。

 

116.瞑想の体験について

瞑想に入る時は、普通の状態と違い、いろいろな感覚が出てきます。
これらの感覚について、どのように考えればよいか以下にまとめ記します。

1.瞑想中にいろんな感覚が浮かんできます。
瞑想は特別な状態です。その時、神経に与える刺激は少ないので、かわりに微妙な、繊細な感覚が浮かんできます。例えば、微電流が発するような感じ、蚊に刺されているような感じ、身体が少し重く、場合により痛く感じられる、顔が痒くなる等々、様々な感覚が生じます。

もう一つは気が流れている、或いは、宇宙から気が入ってくるような感じ、身体が宇宙と一体になるような感じ、光や景色が見えるような感じ、時々ドローンの視点で大地や山川を見ているような感じです。
練習をしていない人は、そのような事を聞くと、信頼できないように思うかもしれませんが、練習している私達は、間違いなく体験できると思います。

2.体験が出来ても、どの様にとらえるかは、分析して考える余地があると思います。
一つの考え方は、宇宙の神秘的なエネルギーが体に入ってくる、或いは自分の魂が宇宙に浮かんでいく等。
これについては、この神秘的なエネルギーと魂が現代の科学とどのように結びつくかが課題になります。
現代の生理学、医学、物理学、化学、天文学等いろんな学問分野がお互いに支え合って、関わってきます。
魂と宇宙の神秘的なエネルギーが、体の健康と関わっているとすれば、今までの各分野の学問は、総て変わらなければなりません。それは大きな課題です。

二つ目の考えは、感じることはあっても、魂と神秘的なエネルギーという事ではないとすることです。もしそうなら、では、どうして微妙な感覚が浮かんでくるかを考えて説明しなくてはならなくなります。

瞑想する時は、魂や神秘的なエネルギ―が有るか無いかを簡単に肯定、否定するだけではなく、もう少し広い範囲で、科学とどのように関わるかを考えていきましょう。

 

115.禅定と人間性

1、禅定
禅定(瞑想)は外部からの神経への刺激を遮断するというプロセスとも言えますし、
また時に良い環境を作って、その良い環境の刺激で、心を養うプロセスとも言えます。

禅定(瞑想)とは、どんな姿勢、どんな流派、方法でも、大事な共通点は、入定(入静)です。
入定は、意識と感情が安定して、あまり動かないようになって、あるいは、外部の六塵(色、声、香、味、触、法)刺激が少なくなるので、内在の「受、想、行、識」が安定して落ち着く良い気持です。
入定は、微妙な良い気持ちに意識を集中することにより、外部の刺激を遮断する事で、心身共にリラックスになる事です。

ここで、微妙な感覚を探す事と、外部の刺激を遮断する事とは、矛盾する二つの事ではなくて、表裏一体、つまり、紙一枚の両面のことです。

入定(安定して落ち着く良い気持)は、方法があり、段階があり、境界があります。
これは、実際に体験できる練習のプロセスです。

2、人間性
①同様性
人間性は大まかにいうと、皆だいたい同じです。
人間性は何十万年もの間ほぼ変わりません。善と悪の両方持っています。

②異様性
人により人間性は個人差もあるのでだいぶ違います。良い人もいますし、悪人もいます。殆どの人は両方の間に居ます。時々、善の気持ちが多くなり、他人を助けたり、正義を守ったり、礼儀を重視したりしています。
ところが、たまには、極限になり、悪向胆辺生(地獄に落ちるほどの悪に走ること)になったりします。
時には、良い気持ちで物事に優しくしていても、時には落ち込んで怒りっぽくなったりします。
感情の変化は環境に大変影響されます。中国では”触景生情”という言葉があります。
景は、環境とも言えますし、環境の刺激により感情が生じます。

禅定と人間性の関係性は、良くない物事の刺激を遮断して、微妙な感覚を見守る事により、良い気持ちを養って人格を高める事です。
禅定は、良くない気持ちを消して、良い人生になる功法です。
良い禅定の結果を得るために、良い環境があることが大事です。
この良い環境は、内側は微妙な感覚を守ることで、外側は日常生活の中で、良くない物事の刺激を避けて、良い生活環境を作る事です。
この”避ける”と”作る”には、物理面と精神面の両方があります。
物理面とは経済的な生活の安定、良好な人間関係。
精神面は、人生観や精神力などの事をしめしています。
良い人生観と精神力を持つと、良くない刺激を受けても、動揺しないでいられます。
ただし、心は敏感なので、弱いこともあります。
例えば、突然大きな打撃を受けるとか、大きな人間関係のトラブルに巻き込まれるとか、あるいは、突然に大病の宣告を受けるなど、精神的なショックを受けると、いくら禅定が出来ていても心が乱れる可能性が高くなります。
だから、大きな衝突や、大きなトラブルなどは、芽の状態のうちに無くすのが良いことです。これには知恵が必要です。
禅定(瞑想)すると知恵が高まります。知恵が高まると、禅定(瞑想)の質が良くなります。

環境と練習は繋がっています。
・道家の修行者たちは修行の前に、4つの準備のポイントがあります。
財、(僧)侶、法、地です。
財は財産の事で、修行の生活を支える、経済面のことです。侶は、自分に最も合う師のことです。法は、良い方法です。地は、練習できる場所です。
以上の財、(僧)侶、法、地は、外部の環境が、禅定の修行に影響する重要性を示しています。

・禅定が良くできていても、外部の環境が大きく変わっていくと、安定の気持ちに動揺が生じます。反対に、突然生活が順調になって(衝突や挫折が無くなって)落ち着くことができると、禅定の質も良くなって、いろんな良い体験が出来ます。

台湾にある、高名な星雲法師が、「人間性は試してみることができない。」と言っています。これは正直、誠実な話で、禅定がかなりできている人でも同様です。

つまり、禅定(瞑想)するために人間性を十分に認識することが重要です。
禅定が良くできても、他人より自分は優位と思わないようにして、また、練習が挫折しても、自否せず、人間性はみなさん大体同じです。
良くない環境を回避し、良い環境を作ることは、良い禅定になる大きなポイントです。
禅定で良い環境を作って、良い人間性になっていきましょう。

111. 瞑想、マインドフルネスと禅密気功

最近、マインドフルネスという言葉をよく耳にします。
マインドフルネスは心理学から派生して、現在ブームになっている練習法です。
これには幾つかの練習法がありますが、共通点は身体、意識(意念)、気持ち等のポイントを通して健康になる方法です。
これは実は瞑想法と一緒です。

瞑想法には2、3000年の歴史があり、この流れの中で、豊富な経験が積み重なってきましたが、同時に、良し悪しは別にして、迷信や、伝説や宗教とかかわっていることも事実です。
例えば瞑想中に光や画像が見えてくる現象があります。
それを各宗教は自分たちの立場から説明しています。
例えば、先生の加持や宗教のパワーと関連している等と説明しています。
でもこれらは現代では科学的に説明がつく現象で、夢と同じです。
寝ると夢をみます。深い眠りのあとではほとんど覚えていませんが、浅い眠りでははっきりと感じる体験も結構あります。
瞑想する時、浅い眠りと似たような状態になっているので、潜在意識が動くと光や画像が出てきます。

同じ現象が出て来ても、現代では科学的な説明を信じる人が増えて来て、心理学から派生した瞑想法だと安心できる、信用できるという気持ちになり、このマインドフルネスが広がってきました。
瞑想をマインドフルネスという名前で広げる事は健康に役立ち良い事ですが、
2,3千年以上昔から修行者達に受け継がれてきた良い体験、教えをマインドフルネスにとり入れる事ができるとさらに良いと思います。
この良い体験は、科学的な説明や、理論的な推理だけでは到達できず、練習しないと出来ない場合があります。
その良い体験をマインドフルネスに取り入れてうまく融合して行くことがこれからの課題になるのではないかと思います。

禅密気功の特徴は瞑想を重視する事で、私達は動功と静功を強調しています。
禅密気功の動功のポイントはゆっくり、柔らかく、ある程度の持続性を持って練習する事で、特に背骨の運動を強調しています。現代の言葉でいうと、有酸素運動を強調しています。

禅密気功の静功は瞑想です。
この瞑想のポイントは、一言でいえば、神経(五感)に刺激を与えないようにして、かわりに微妙な感覚に集中していくことです。
それによって、1.気、2.光、3.意念、4.心という段階を相次いで展開していきます。
そして身体も健康になります。

1.気が満杯になると、身体が健康になり、
2.光になると、潜在意識の緊張感や、病の根源である心の病をを取り除きます。
3. 意の練習は宇宙と一体になって、天神合一という感覚が出て来て、それは全ての物事に対してこだわりが少なくなります。
4. 心の練習では直接、穏やかで愉快な気持ちを見守るだけになって、そうすると喜怒哀楽があっても、激しくなく、長続きせず、すぐ穏やかな気持ちに戻ります。人生が楽しくなります。

まとめると、マインドフルネスや瞑想や禅密気功がめざしているのは同じ事です。

110.気と光の瞑想の関連性    

気の瞑想と光の瞑想は重なっている部分があります。
共通点は体内の微妙な感覚に意識を集中していくと、意識の動きが少なくなって気持ちの緊張感がほぐれてきます。
その共通点を基にして、体内の微妙な感覚に集中していくと、気の変化、動きがますます活発になって広がって、それは身体の改善にはとても良いことです。
意識を下丹田にもっていくと気が活性化します。

光を見ようという意識を持って瞑想すると、光や画像が活発にでてきます。
それは顕在意識と潜在意識が一体になって、夢を見ているのと似たような状態になります。
大抵、上丹田(慧中も含む)に意識を集中すると、光や画像がより鮮明に現れます。
光に意識を集中していくと、潜在意識の中の心の傷や不安など、気持ちの病気の根源を消す事ができます。
気の瞑想と光の瞑想の違いは、瞑想する時、意識を体内の感覚に付随していくか、光と画像に付随していくかの微妙な違いだけです。

ですので重なっているところもあります。気に集中しても光が現れたり、光に集中しても気が活発になる事もあります。
気の瞑想と光の瞑想は昔からこの分け方があって、それは道教系の瞑想の事です。
道教系の瞑想には、「練精化気」、「練気化神」、「練神化虚」、「粉砕虚空」という四つの段階の瞑想があって、「練精化気」は気の瞑想にほぼ該当します。
「練気化神」は光の瞑想にほぼ該当します。

109.瞑想中の火加減

瞑想は、神経に与える刺激を減らして、遮断するという過程を通して、心身ともにリラックスする訓練です。
刺激を減らす訓練は微妙な良い感覚に意識を集中する事により実現します。

人の意識と感情は非常に敏感で、環境により、外部の刺激により変化しています。
瞑想する時、意識と感情が動きやすくて、落ち着いて静かにすることが非常に難しいという事が分かります。
昔の修行者達は「心は猿、意識は馬(心猿意馬)」のように活発に動いていると言いました。
ですので、意念と心を整える事は「鎖心猿栓意馬」と言います。
猿のような心を鎖につなぎ、馬のような意念に栓をするという意味です。

瞑想ができるかできないかの大事なポイントは「鎖と栓」です。
この「鎖と栓」というのは、自分の感情と意識を微妙な感覚に集中していくことです。
瞑想の流派は沢山あるので、方法も沢山あります。
共通点は微妙な感覚に意識を集中する事です。

今回の文章で、もっとも強調する事は、微妙な感覚についても、「粗と細」があるという事です。
微妙な感覚に集中していくと、最初は雑念を減らして気持ちが良いですが、
段々と少し辛くなって、煩わしいようになってきます。

その原因は二つあります。
一つは体内にもっと微妙な感覚が浮かんでくること。
もう一つは、一つの感覚を長く見守っていくと、集中しずらくなるからです。
二つの原因は時々、別に浮かんできたり、時々、混じって起こったりりします。

集中しずらくなった時、以前の感覚に集中しないで、
もっと微妙な感覚に集中していかないといけません。
その前の感覚は「粗」といい、もっと微妙な感覚は「細」といいます。

ここの「粗」というのは集中すると少し辛くなります。
「細」というのは良い気持ちで集中できます。

「粗と細」は練習中に段々変わってきます。
最初の「細」が段々、「粗」になり、その時、代わりにもっと「細」の感覚を探さなければなりません。
続けて瞑想していくと、このもっと「細」の感覚も、「粗」になって、
そうすると、もっと「細」の感覚を探して集中します。

瞑想の過程はその繰り返しです。それも瞑想の火加減という事です。
私達の練習はおおまかにいうと、動作に集中する事から、気に集中する事に変え、
次は気に集中する事から光に集中する事に変え、次には意に集中する事に変えて、
心に集中する事に変えます。

瞑想しながら、火加減の事を体験しましょう。

107.瞑想(禅、禅定)について考えてみましょう

瞑想(禅、禅定)について考えてみましょう。

1.瞑想(禅、禅定)の定義とは?
2.瞑想(禅、禅定)は仏教に固有のものですか?
3.禅宗の禅と瞑想(禅、禅定)はどういう関係ですか?
4.禅宗の「頓悟」と「漸修」の関係は?
5.瞑想(禅、禅定)の過程、段階、境地について?
6.入定(深い瞑想)の時、光や画像が見えますか?
7.入定(深い瞑想)の時、離体という現象を感じられますか?
8.離体とはどういうことですか。
9.瞑想(禅、禅定)する時は必ず座禅を組まないといけませんか?
10. 瞑想を修行する人の生活は普通の人の生活と違いますか?
11.瞑想(禅、禅定)と書物の関係は?
12.瞑想(禅、禅定)をするためには、世間から離れる事が必要ですか?
13. 世間から離れる事、世間に留まる事と、瞑想(禅、禅定)との関係は?
14.瞑想(禅、禅定)をするためには必ず仏教徒でなくてはならないですか?
15. 瞑想(禅、禅定)と仏法の関係は?
16.瞑想(禅、禅定)と儒教の関係とは?
17.瞑想(禅、禅定)と道教の関係とは?
18. 瞑想(禅、禅定)が中国の文化に与えた影響とは?
19.瞑想(禅、禅定)は心の病を治せますか?
20. 瞑想(禅、禅定)をすれば、心身ともに健康になれますか?
21.瞑想(禅、禅定)の質をどうすれば上げられますか?
22.瞑想(禅、禅定)における指導者(先生)の影響
23.瞑想(禅、禅定)を自分で練習することと、他の人達と一緒に練習する事の関係は?
24.瞑想(禅、禅定)の理論を理解することと熱心に練習する事の関係は?
25.瞑想(禅、禅定)の為の静かな環境と通常の生活との関係は?
26.瞑想(禅、禅定)をする為の良い性格と態度とは?
27.瞑想(禅、禅定)と慈愛、愛、との関係は?
28.瞑想(禅、禅定)と人間性の関係は?

沢山の質問を並べてみましたが、これらを一つずつ考えてみると瞑想に良い影響が出てくると思います。
一緒に練習しながら探索してみましょう。
 

 

 

106.「心の底の練習について」

瞑想を通して、段階を追って心の底(無我)にたどり着く方法は、漸修と言います。

瞑想を通して、直接、心の底を見守る方法は、禅宗の禅で、「心底法門」「頓悟」と言います。

禅宗の禅(瞑想)は、インドから中国に伝わってきた瞑想法(漸修)が、荘子の思想を取り入れて、直接心の底を見守る特徴的な瞑想法になりました。

同様に、インドの瞑想がチベットに渡り、禅宗の禅と似たような「大手印」と「大円満」(ゾクチェンともいう)になりました。
しかしながら、「大手印」と「大円満」(ゾクチェンともいう)は、心を見守る段階と境地を分けて説明しているので、現代人には禅宗の瞑想法と比べるとより合っていると思います。

直接穏やかな気持ちを見守る練習法(「大手印」と「大円満」(ゾクチェンともいう))は、
チベットでは最高レベルの練習法で、他の功法を練習してからでないと知ることは出来ないし、練習する前に様々な儀式があります。
でも現代社会ではその情報が公開されて、秘密があまり無くなり、心理学界をはじめとして、この功法を応用して精神疾患、人間関係の改善、思考力、決断力の向上などをはかり、幅広く、いろいろな分野で取り入れられています。
これらは様々な瞑想法として現在、大勢の人に受け入れられています。

実は座禅と瞑想は少し中身を理解すると同じ事です。
なおかつ、宗教と無関係で出来ます。
瞑想の目的により、宗教の瞑想法になってもいいし、関係なくてもかまいません。

私達が教室で勉強している瞑想法は、心身双方が健康になるための功法です。
身体を養う方法はいろいろありますが、瞑想もその中の効果のある良い方法です。

皆さんも一緒に体験してみましょう。

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