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120.瞑想と悟り その②

その②
ここまで書いて、約30年前に聞いた呉中先生の言葉が思い出されます。
「練習のレベルは自分の言葉、思い、行動と一致しています。」
当時、その言葉は心に響きました。
同じ事で、悟りを開くと、言動、思考にそれなりに変化がでてきます。

「一度悟りを開いたら、今後は迷う事がない。」という良く知られている言葉があります。現実では、悟りの中には大きな悟り、小さい悟り、長い悟り、短い悟りなどがあります。例えば同じ悟りを開いたと言っても、六祖慧能(禅宗六代目伝人)は五祖に「悟りを開いた後は自分で自分を導きます。」と言いました。慧明は六祖慧能の指導で悟りを開いた修行者ですが、六祖に「それ以外にまだ秘密にしている功法が有るのではないですか?」と言いました。というのは慧明はまだ先生に依存する気持ちが残っています。一方で六祖慧能は自分でこの安定した状態を維持することを信じています。
慧明の悟りは大きな悟りとは言えません。大きな悟りは徹底した悟りと言えます。

同じ悟りを開くといっても、安定した悟りかどうかには違いがあります。
生活の中で色々な事が起きても、続けて安定した悟りを維持していくことが大事なのです。ですので五祖は六祖慧能に、「悟りを開いた後の状態をよく守って、すぐには人に教える事をしないでください。」と言いました。

ここで特に強調したいのは、いくら悟りを開いた人と言っても、まだ普通の人間で、喜怒哀楽、七情六欲があります。ただし悟りを開く人は自分が落ち着く環境を作る事ができます。自分は良い環境の中で穏やかに過ごしています。ただ環境が変わって、煩わしい環境が強すぎる場合は、穏やかな気持ちが少なくなり、消えてしまう事もあります。或いは何日か睡眠がとれない場合や、極度の緊張が続いた場合など、人間の限界を超えた場合には、いくら悟りを開いたと言っても、人間ですので、精神が崩れてしまう事があります。

悟りを開いた人を神様や聖者として崇拝(盲信)する人達が多いですが、それは自分の悟りにも良くないですし、悟りを開いた人にも良くないです。
盲信すると他人任せで、自力で自分の心を整えて良い状態を維持する気持が無くなって、依頼心が強ければ強い程、悟りから離れます。
特に最近の数十年では、練習が良く出来た人達を崇拝(盲信)する人が大勢でてきて、その崇拝(盲信)の雰囲気の中で、良く出来た修行者の人格が落ちる事があります。

有名な例としては数年前、中国仏教協会の当時の会長であった学誠法師という人が、自分の権威を利用して、女性修行者に性的嫌がらせを犯しました。また、それを公に指摘した人達を弾圧しました。
中国仏教協会会長というのは仏教界では最高権威者で、余程の苦行を重ね、悟りを開いた特別の修行者でないとこの地位にはつけません。学誠法師は当時、仏教を熱心に勉強し、苦行も重ねた人で、著書も多く、良い内容で大変尊敬された法師でした。そのような人物でも上記のような悪事をおかしました。
なぜならば、権力をもった結果、環境が変わって、大勢の人から崇拝され、自分を制限するものは何もないと思ったからです。
このように一旦悟りを開いたと思っても、崩れてしまう事もあるのです。

つまりいくら悟りを開いたと言っても人間は人間です。人間には欠点もあり、限界もあります。悟りを開いたと言ってもこの安定感を維持するため、続けて練習していかなくてはなりません。
悟りを開くというのは超能力という意味ではなく、総て物事が分かるという事ではありません。悟りを開いたら科学は不要という事でもありません。悟りを開いた人は全能の人ではありません。
悟りを開いてもごく普通の人間で、知らないことも沢山ありますし、物事の判断を間違う事もあります。

悟りを開くことは修行の一つの目標ですが、その目標を山頂に例えると、山頂に到達しなくても得る事は沢山あります。このような瞑想を続けると体質が改善され、心が落ち着いて、以前より人生を楽しく過ごせるようになります。
練習すればするほど好きになって、中毒のように、離れられなくなるような感覚があります。日常生活の中でいつも瞑想の事、あるいは気持ちが落ち着く事を考えています。そのなかで注意することは、迷信や超能力を追求してはならない事です。邪道や外道にそれてしまいます。邪道は社会に良くない影響を与える道で、外道は目標から離れて練習することです。練習の間に様々な感覚や現象が起こっても、それにとらわれず、穏やかな気持ちを探していくことが練習の大事なポイントです。

練習に迷った時に、実際に修行して体験している指導者が側にいると助けになるでしょう。大事な時期に教えて貰えるとずいぶん違います。
指導者は細かい所まで見守ってあげるか、場合によっては大きな声で叱るかもしれません。教え方の違いは修行者の練習の状態や素質によります。

119. 瞑想と悟り その①

「瞑想と悟り」  その①               

ここで言う悟りとは、瞑想を通して良い体験を得た後、自分の考え方や志が昇華することです。或いは年月をかけて常に瞑想すると、「天神合一」後、心境が変わる事です。

正しい瞑想は登山と似ていて、高く登れば登るほど、風景が美しくなります。山頂に着けば、眩しい雲海の中に、山峰が幾つも島のように浮かんで見えて、気持ちが和らいで、無心になり、純粋になります。この状態を長く続けていくと、自分の人生観や考え方が変化します。悟りというのは、雄大で美しい大自然に囲まれた時のように、認識や心境が変わる事です。

この認識の変化は、基本的には徐々に起こりますが、突然に感じる事もあります。突然に変化したと感じても、実際は長年の訓練の結果です。
突然の変化は瞑想している時に起こる事もありますし、日常生活の中で、刺激を受けて感じる事もあります。
この段階の瞑想というのは、わざわざ時間を取って座って瞑想する事だけではなく、日常生活も瞑想という事です。つまり常に気持ちの事を意識しています。
日常生活の中の刺激というのは、例えば、叩かれた時や、或いは何らかの刺激を受けた時などで、瞬間的に悟る事があります。
この突然の悟りは、飛躍的で、本質は感覚から離れて、非常に穏やかで落ち着いた気持ちを認識することです。

禅宗、「楞厳経(りょうごんきょう)」、密宗の中に、悟を開く例が沢山記録されています。
例の一つに、先生と弟子が山中の洞窟で練習していたある夜、名月が出ていて、大地が静かでした。その時、先生が弟子に「貴方はいつも最高レベルの瞑想求めていますね。今それを伝えるとしたら、その準備は出来ていますか?」と問いました。
弟子はそれを聞いて「長年望んでいたことがやっと実現します。」と喜び、心を整えて落ち着いてから「はい、準備が出来ました。」と答えました。
「ご覧、あれは何ですか?」と先生は名月を指さしました。「月です。」と弟子は答えました。すると先生は「もう伝えてあげました。」と言いました。

もし私達がこの話を聞くと、先生は冗談を言ってると思うでしょう。
しかし、弟子はすぐ分かりました。名月の下に山脈の尾根の輪郭が連なり、森林が広がり、大地が静かで、夜空が明るい景色の中にいると、非常に落ち着いて、リラックスした気持ちになっていました。その気持ちさえあれば、他に求めるものは何もないでしょう。ここでの大事で微妙な一歩は、良い景色と融合する時、自分の心の状態を見て、その穏やかな気持ちを重視することです。人生はその気持ちを持って過ごしていけば、最高だと分かる事です。

その弟子は今までに何度も名月の夜を見ていたのに、その時まで気づかなかったのは、景色のみに心が奪われていたからです。ですが、今、その時になり、突然、景色とは別の穏やかで落ち着く気持ちがある事に気づいたのです。
その時の体験はどのような言葉で説明してもかまいませんが、同時にどんなに説明してもしきれません。これは以心伝心なのです。

悟りを開いても、また、通常の生活に戻って、様々な事が起きても、修行の機会として、練習を続けなくてはなりません。
悟りを開いたら、物事に対しての考え方が異なってきます。ようするに人生観が変わります。名誉、損得、喜怒哀楽、などについては関心が少なくなって、代わりに穏やかな気持ちを守る事だけを一番大事にするようになります。それに従い、物事に対する態度が変わります。より優しく、平常心で人と接するようになります。

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