26.「無」と「空」

「無」「空」は練習の高い境地であり、練習の目標であると知られています。
「無」「空」の関係についてはあまり論じられていないので、ここで述べてみたいと思います。
「無」は練習する時、現実の感覚がなくなるという現象であり、「空」は持っている様々な感情が練習を通して無くなって、すっきりする状態を表しています。

1.「無」について
瞑想を深く行うと、現実の感覚(物理的な感覚)はなくなりますが、かわりに気の感覚、空中浮遊のような感覚が浮かんできます。これが「無」です。それは仙人のような気持ちといいますし、「禅悦」ともいいます。昔は仙人というのは、その境地を常に持っている人の事をいいました。
「無」を続けるといろいろな道に分かれます。超能力を望めばその方向の感覚が鋭くなります。癒す道を選べば気功師になります。そして「無」を見守り続けていく道もありますし、「無」の中に「空」の感覚を探す道もあります。
例えば現実社会で運動にはテニスやサッカー、水泳など様々な種目があるように、気の世界でも様々な道があります。
目的を明確にしないと気功の世界で迷って、道を見失う事が結構あります。

2.「空」について
瞑想を深く行うと現実の感覚がなくなる一方、感情も段々薄くなってなくなります。これが「空」です。人間は刺激を受ければ受けるほど感情が生じ、そしてその感情が積み重なります。積み重なっている感情は必ずしもストレスや落ち込んでいる感情だけではなく、嬉しいとか幸せな感情かもしれません。
この「感情が無くなる」というのはロボットのように無感情になるという事ではなく「月夜に、森の中、池の側をのんびりと散歩している」気持ちになる事です。引っかかるものは一つも無く、こだわらない気持ちの事です。ですので、感情が無いのではなく、却って活き活きとして、鮮やかな感情を持つようになります。

3.「無」と「空」の関係
仏教系修行者の目標は「空」ですが、基本は「無」を通して「空」になる事です。
何十年も生きているうちに人には積み重なった感情がかなりありますので、「無」という練習を通して、感情を発散します。残るのは薄い良い気持ちだけになります。その気持ちの中の落ち着いてリラックスした気持ちを探し続けていけば、「空」にたどり着きます。
「無」はまだ最高の境地ではないので、「空」を求めるから「無」の練習は必要ない、という人達もいますが、これは大間違いで結局「無」の境地にもいけませんし、口先だけに終ります。中国の宋時代以降、そういう人達が多くなり、「無」を通して「空」を求める人は少なくなりました。
本当の「空」を求める人達は「無」の練習を大事にするべきです。

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25.呼吸に集中する事から瞑想に入る良さ

呼吸に集中する事によって瞑想に入る功法は、殆どの場合、呼吸の数を数える事から始めるので「数息観」と言われ、それには6つの段階(或いは方法)があるので「六妙門」(ろくみょうもん)とも言われます。瞑想には流派が沢山あり歴史も長いですが、「数息観」は2,000年にわたり大変効果がある功法の1つと言われてきました。なぜならば、呼吸に集中すると瞑想に入りやすいからです。

ここでは呼吸に集中する事から瞑想に入る良い点を説明していきたいと思います。
以前にも言ったように、瞑想とは意識と気持ちを安定させる事です。意識と気持ちが安定して落ち着いてくると、心身双方の緊張感がほぐれ、毛細血管が開き、細胞が活性化して気のめぐりが良くなります。
しかし、意識と気持ちを安定させる事は容易ではありません。外側には五感を刺激するものがあり、内側には眠気と雑念があるので、常に揺れて動いています。この揺れる事を昔は猿と馬に例えています。

意識と気持ちを安定させるには、先ずは一つの物事(音、色、匂いや、体の感覚等)に集中する事です。
人間は様々な刺激を受けていますが、集中する事自体も1つの刺激を受ける事です。
1つの刺激に集中していくと、他の刺激があまり感じられなくなります。
しかし、その刺激が強すぎると集中はできますが、意識と気持ちは揺れて落ち着きません。
例えば、激しい音楽に集中したり、激しく動いている物に集中する事など。
逆に、刺激が弱すぎると、他の刺激が邪魔をして集中できなくなります。
例えば、初心者が体内の気に集中する、或いは「無」に集中する事などです。

呼吸は、瞑想にちょうど良い刺激です。ここの呼吸というのは、気持ちが落ち着いている時の呼吸です。
そのときの呼吸の特徴は「深く、長く、細く、均一」です。
「深く」は下腹部まで繋がった呼吸で、
「細く」は、呼吸の量が普通と較べると少なくなっています。
「長く」は、1回の呼吸にかかる時間が長くなります。
「均一」は、呼吸の時間がすべて均等です。

1.呼吸は、体の自然な動きですから、特に探そうと神経を使う必要はありません。誰でも呼吸に集中する事ができます。
2.落ち着いている時の呼吸ですから、柔らかい感覚です。集中すればするほど、落ち着いてきて、呼吸はもっと柔らかくなり、そうすると気持ちがもっと落ち着いてきて、雑念等がさらに減り、良い循環になります。
3.呼吸の感覚は幾つかありますが、集中するともっと繊細で微妙な感覚がでてきます。  

その感覚の過程は、A.呼吸をする時,体は自然に動いています。→B.鼻と喉を通して空気が流れています。→C.呼吸とあわせて体内の気(エネルギー)も動いています。
ABCの三つの感覚では、Aが1番集中し易い感覚で、Bは微妙な感覚に入っていく事ができ、Cは繊細で微妙です。呼吸に集中するという事は、Aから段々Cに行く事によって、深い瞑想に入っていくのです。

そういう特徴があるので、呼吸に集中する事から瞑想する事は、優れていると長く評価されているのです。

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24.意随気行

意識を一箇所(殆どの場合は体の特定の部分)に集中させる事を「意守」といいます。「意守」を続けていくと、体内の気が動き出します。このリラックスした状態で、自然に体内の気が流れ出ている事を「気行」といい、その流れている気を続けて見守って集中することを「意随」といいます。
「意随気行」は先ず体内に気が流れ、意念をその気の流れに沿って一緒に動かします。
「意領気行」は先ず意念を先に動かし、気はその動きによって感じられるようになります。この概念は「意随気行」と反対です。

「意随気行」は理論的には分りやすいのですが、実際に練習すると難しい点があります。それはやっと意識と気持が静かになり、安定した事で気が出てきたのに、その気の動きの刺激によって、すぐ意識と気持が影響を受けて、乱れる可能性があるからです。この事を乗り越えるためには、「気動」の正しい認識を持つ事と、意識と気持ちを安定させる為の練習を続ける事です。練習を続けていけば、気の流れが分かって、それに意識を集中させても気持に影響はありません。気の流れについて動く意念の「意」は、安定した良い気持のもとで、緊張感がない緩んだ顕在意識です。

意念はエネルギーです。流れる気に意識を集中していくと、気の感じが更に強くなります。その気の感じは粘りがあり、ゼリーを動かすような感じです。昔の修行者達はそれ位濃い気の感覚がないと、気はまだ流れていないと思っていました。小周天でいうと、意識を廻しても気の感覚がそこまで濃くならない状態を「空転水車」といいます。水車を廻しても水は運ばれていないという意味です。

「意随気行」ができるようになったら、更に深い瞑想ができるようになります。この「気行」は体の自然な要求に応じて動きだした気で、それについて意念が動くと、気は更に強くなります。その結果、より健康に効果的です。

(会報37号 2006/6月号より抜粋)

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23.瞑想時の呼吸

1.呼吸と気持ち
呼吸は、心臓と肺臓の筋、筋肉の動きによって行っています。
人間は危険に遭遇したり、緊張感があれば、心臓と肺臓が早く動きます。それは昔の防衛反応の残りです。
大昔は注意していないと、別の動物に攻撃を受ける可能性がありました。危険を察知すれば、早く逃げないと生き残れません。心臓と肺臓が早く動くと、エネルギーが血流を通して手足の末端に届き、逃げる、或いは防衛する状態になれます。現代ではそれほどの危険はありませんが、生理的に昔の現象が残っていて、緊張感や不安があると、心臓、肺臓が速く動いて、呼吸も早くなり、乱れてきます。
逆に呼吸を整えると、心臓、肺臓の動きが落ち着いて、気持ちも落ち着いてきます。
ですから、呼吸と気持ちは非常に繋がっています。

瞑想すると、呼吸を通して、気持ちを落ち着つかせる事ができます。
普段、呼吸している時、横隔膜が上下に動く幅は3cm程ですが、深い瞑想をすれば9cm程になります。これは内臓のマッサージ効果や、自律神経を整えるという効果があるだけではありません。横隔膜の上下運動は、みぞおち(「感情が最初に集まるところ」)がゆっくり上下するので、感情のマッサージという効果もあります。

2.呼吸と感覚
昔の修行者達は呼吸を4種類に分けていました。これらは「風、喘、気、息」です。
「風」とは呼吸する時に呼吸の音が聞こえるほど、激しい呼吸の事をいいます。
「喘」は呼吸する時に音はありませんが、喉に少しひっかかるような、息が少し通りにくいような呼吸の状態の事をいいます。
「気」は普通の呼吸の事です。
「「息」は瞑想している時の呼吸の事です。

では「息」について詳しく説明しましょう。「息」には二つの意味があります。
瞑想している時の①呼吸の状態と、②呼吸と繋がっている気の感覚です。
①呼吸の状態
瞑想している時の呼吸は普段よりも、「深く、細く、長く、均一に」なっています。
「深く」とは腹部まで呼吸している事です。普段は、喉や胸が呼吸と連動して動いていますが(胸式呼吸)、瞑想している時の呼吸は自然に腹部(「臍の下三寸」)と連動しています(腹式呼吸)。
「細く」は、呼吸の量が普通と較べると少なくなっています。瞑想している時、使う酸素は普段と較べるとかなり少なくなりますが、より有効的に使っています。
「長く」は、一回の呼吸にかかる時間が長くなります。
「均一」は、呼吸の時間がすべて均等です。
以上の四つの特徴は静かで、安定している時に現れる特徴です。
練習すればするほど、その「深、均、細、長」という感覚が現れます。

②呼吸と繋がっている気の感覚
瞑想状態になっている時、呼吸している感覚は持ちながら、体内に意識を集中すると、体内の気が呼吸と連動している感覚が分かります。たとえば、下腹部に集中していくと、下腹部が呼吸しているような感覚がでてきます。
どこか悪い部分があれば、そこに意識を集中していくと、その患部が呼吸と連動して、気が動いている感覚があります。皮膚に集中すると、皮膚が呼吸している感覚がでてきます。呼吸する時、喉から下腹部まで気が流れると想像すると、そのような感覚が出てきます。
道教系の小周天の場合は、呼吸と合わせて、体内の気が任脈、督脈に沿って流れている感覚が出てきます。
要するに、どこかに「意守」すれば、そこの気が呼吸と連動して動いているような感覚がでてきます。それで「胎息」「体息」などの感覚がでてきます。

瞑想と呼吸の概要を説明しましたが、練習すればもっと分かりやすいので、是非、練習してみてください。

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22.健康の為に良い気持ちに集中しましょう

気功態になると様々な感覚が浮かんできます。
いろいろな気の感覚や、直感が強くなるという感覚、気持ちが良くなるという感覚もあります。
夢うつつの状態になると、空中浮遊のような感覚になって、虚の世界に入っていると言う感じもあります。
どこかの感覚に意識を集中していくと、その感覚が強化され、拡大化されます。
そこからさまざまな分かれ道があります。
気の感覚だけに集中すると外気功や気功師の道になります。
直感に意識を強く持っていくと、超能力者や占い師になるでしょう。
虚の世界に意識を集中すれば、宗教の世界に入るかも知れません。
そして気功態になる時の虚の感覚と、気功を練習していない時の現実の感覚をうまく切り替えないと、精神が乱れます。

良い気持ちに集中するといっても、道家系と仏教系気功では微妙な差があります。
景色に例えれば黄山のような山頂に登って、雲海、霧に囲まれると、仙人のような良い気持ちになりますね。
それは道家系気功の強調する良い気持ちです。
また、月夜に森林の中、池のそばを散歩すれば、とてもほっとする、落ち着くような気持ちが自然に浮かんできます。これは仏教系気功を練習する時に強調される良い気持ちです。
仙人のような良い気持ちと、ほっとするような落ちつく気持ちは、少し異なりますが、両方とも健康にとっては良い気持です。
それらの気持ちを昔は「大薬(体に大変良い)」といいました。
両方の気持ちは無関係ということでなく、混ざっていて、紙1枚の裏表の関係であり、かなりの段階までは混ざって繋がっています。

道家系気功と仏教系気功のどちらかが良いという事ではなく、歴史と文化の由来が異なり、気功に微妙な違いがあるという事です。一般の私たちは健康になる為に気功を練習するので、伝統的に信頼できる道家や、仏教系気功の練習を続けていけば、必ず良い気持ちを身につける事ができ、健康になります。

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21.心を落ち着かせる事

本当の気功なら、心を落ち着かせる事を強調しています。      
何故ならば気持ちは意念、気、そして体と密接に繋がっているからです。      
気持ちが不安定だと、気が乱れて、良い気でも悪い気になって、ストレスがたまり病気になります。逆に気持ちが安定していると、気が脈を通して全身に流れ、健康になります。
    
以上の事は皆さん充分に分かっている事と思いますが、実際に気持ちを安定させる事は容易ではありません。自分の気持ちを観れば観るほど、人間の気持ちが如何に敏感であるかが分かるようになります。というのは、気持ちは六感の刺激により動いているからです。      
六感を通しての刺激には気持ちを落ち着かせる刺激もありますが、逆に気持ちを乱す刺激もたくさんあります。社会の現代化が進むとともに、人間は忙しくなり、緊張感を抱えるようになりました。忙しくなると緊張しやすくなり、気持ちにゆとりがなくなります。それが体に一番良くない事です。気功の練習をする人間は、練習していない時でも自分の気持ちを常に見守っていて、なるべく良くない刺激を遮断して、同時に良い刺激を探して、その刺激を受け止めるようにします。
   
世の中には良い刺激はたくさんあります。青空、紺碧の海、瑞々しい植物、ソフトな音楽、笑顔、いい本、落ち着かせる環境、等々、探せばまだたくさんあります。気功の練習というのは常に刺激を区別して、気持ちを乱す刺激を遮断して、落ち着かせる刺激は受け止めます。
   
ここでもう少し強調したいことは、人間は無意識にいろいろな刺激を受けています。
気功を練習すればするほど、無意識の中の刺激が如何にたくさんあるかという事が分かってきます。せっかく一生懸命練習して良い感覚があったのに、無意識の中に、悪い刺激を受けて、又、気が乱れるケースが結構多くあります。ですので、練習して気が活性化し、その状態を維持するためには、無意識の中の悪い刺激を遮断しなくてはなりません。無意識の中のいろいろな刺激とはどういう感覚でしょう。
自分の気持ちを観る事を通して、体験してみましょう。

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20.「先天と後天」

本来の言葉の意味は「先天」とは生まれつき身に備わっていること、「後天」とは生まれてからのちに身につけること、という意味です。この言葉は気功の中でも結構使われています。気功においては、「先天」は自然、根本、本質という意味で、「後天」「先天」から意図的、人工的に出来上がった事をさします。

「先天の気」「後天の気」
昔の修行者達は、瞑想をして体の存在感が段々と薄くなれば、宇宙と一体感が得られると言っています。この宇宙と一体になるという感覚は混沌ともいえますし、「先天」ともいえます。その状態を続けていると、体内の気が動きだします。その気を「先天の気」といいます。
心身ともに静かな状態になれば意念で気を動かす事ができます。この意念で動かした気は「後天の気」といいます。私達は呼吸や食事を通して体外のエネルギー(気)を体内に取り入れています。この体内に取り入れている気も「後天の気」といいます。

ところで瞑想をして静かになった時に自然に動いた気は「先天の気」ですが、意念で動かした体内の気も、この外からの気と較べると「先天の気」です。
すなわち、体外から取り入れた気は「後天の気」で、体内にある気は総て「先天の気」となります。体外の気は呼吸や食事だけではなく、五感に影響を与えるものは体にとって良い影響をあたえるのであれば、それは「後天の気」です。「後天の気」も、体内に取り入れて、体内の気の一部になれば、「先天の気」になります。
その時、「後天」「先天」に戻る(「後天返先天」)といいます。

「先天」「後天」
「先天」は意識と気持が安定している状態で、「後天」は意識と気持が動いている状態です。気功の練習では意識と気持の安定を重視し、この安定度で「先天」「後天」を区別しています。昔の人は、生まれる前と後を較べて、胎児はあまり外側の刺激、影響を受けていず、意識と気持が安定しているので、その意味で「先天」といいました。それに較べると、生まれた後はいろいろな刺激を受け、意識と気持が揺れているので、「後天」といいました。又、大人と子供を較べて、子供は純粋、天真爛漫で、意識と気持があまり揺れていないので、「先天」といい、反対に大人は意識と気持が揺れているので「後天」といいました。

しかし、例えばへその緒を切っても、生後もある期間、生まれる前と同じように気持ちが安定している事もありますし、胎児でいる時でも意識と気持ちが揺れている可能性もあります。子供と大人も同じで、子供でも意識と気持が揺れている可能性もありますし、大人でも安定している可能性もあります。
ですからこの区別は大まかには正しいですが、絶対的なものではありません。

気功からみると、緊張感を持って神経を使う事、体が疲れる事、意識と気持が揺れる事など、これらの事は「後天」といいます。反対に穏やかで、健康で、安定している状態は「先天」といいます。「後天が先天に戻る」(「後天返先天」)というのは、練習を通して、緊張感をとり除き、疲労を快復し、元気になり、穏やかになるという事です。

「先天と後天の気」「先天と後天」の区別は、気功においては総て練習から得た体験をもとに考えられたものです。その考え方を本質的に理解しないで、神秘的、或いは、表面的な事柄のみで捉えてはいけません。
ではこれから練習を通して「先天」「先天の気」を探して、「後天」「先天」に戻しましょう(「後天返先天」)。

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19.「止観(しかん)」について

「止」「観」、は気功を練習する時の大事な二つのポイントです。どのような気功を練習しても、必ず止観があります。「止観」「止」は止めるという意味です。乱れた意識と気持を止めて静かにさせる事です。「観」「止心」の段階で体の中の感覚を観察して観る事です。

「止」「止意」「止心(情)」の2段階に分けられます。
「止意」というのは意識を思うところに定める事ができて、邪魔な雑念を止めることです。
皆さんご存知のように視覚、聴覚、味覚、触覚、嗅覚がある限り、意識は忙しくて、止める事は難しいです。
気功を練習する時、まず刺激のあるところに意識を集中して、徐々に刺激が薄いところに集中していき、最後には感覚のない所に意識を定めます。ですので、先ず動作に意識を集中して、次ぎに動作に馴れたら、動く時の体内の感覚に意識を集中します。その次に意識(意念)を動かします。最後に意識を一箇所に集中することです。

意識の安定は大体3段階に分けられます。先ず1段階目では、集中力が弱くて雑念だらけですので、緊張感を持って、集中します。雑念が起こって集中できなくなったら、早めに分って、目標に戻って集中します。この段階では、この練習を繰り返します。例えば、野生のサルを飼う時には最初は逃げないように、鎖に繋ぎます。この鎖は緊張感を持って集中するという事です。2段階目は集中することになれて、雑念があまり起こってこない状態です。野生のサルを飼う事でいうと、繋がないで、囲いの中に入れておく事です。その囲いは集中する事になれるということです。三段階目は集中する事と一体になって、いろんな刺激があって、雑念がおこっても、すぐ自然に集中する事に戻れます。サルの例でいうと、囲いをとって自由にさせても、飼われている場所に戻ってくることです。

「止心(情)」というのは波のように動く感情を穏やかな状態に定める事です。
「止意」ができるようになったら、次ぎはもっと微妙な動きを止める為に「止心(情)」に行きます。
「止心(情)」も三段階に分けられます。一段階目では自分の気持を観る事です。気持に揺れがあったら、すぐに分って戻ります。1段階目が上手くできるようになったら、2段階目はその穏やかな気持を長く維持する事です。三段階目は二段階目が上手くできたら、続けて練習すれば子供のように純粋な、活き活きとした気持がでてきます。というのは外部の反応によって喜怒哀楽が鮮明に現れますが、終わったらすぐに穏やかな気持に戻ります。喜怒哀楽があらわれるといっても、強く現れるのではなく、気持の転換もすぐにできます。この段階で喜怒哀楽が現れても、基本的に穏やかな気持はかわりません。

意と心(情)は非常に繋がっていますので、「止意」の時、「止心(情)」の訓練も含まれていますし、その反対も然りです。ですので、「止意」から「止心(情)」にいくといっても、絶対に分けられる事ではないし、特に「止意」「止心(情)」の第三段階は表裏で非常に繋がっています。

「止観」「観」「止」の練習をする時の各段階の体と気持の感覚に集中して観る事です。「止」の段階においては、その段階なりの体、気、気持の感覚が浮かんできます。「観」はそれらの感覚を最初はちょっと探すような意識を持って観る事で、次ぎは自然に観るだけです。

気功の練習の中に、「止」「観」という内容はもっとたくさんありますが、ここでは禅定の視点から大まかにまとめてみました。私達は練習を通して、「止」「観」を身につけましょう。

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18.瞑想時の意識と気持の動きについて

会報32号で気功態について述べましたが、気功態になってからも続けて瞑想あるいは禅定をしなくてはなりません。
練習といっても身体を動かすのではなく、意識と気持を動かす練習です。
昔の修行者達はその時の意識と気持の動きを5つのポイントにまとめています。
「尋(覚)、伺(観)、喜、楽、定」です。このポイントについては、会報31号に少し書きましたが、ここでもう少し詳しく述べたいと思います。

「尋(覚)」は気功態に入る事を努力する事、そして気功態に入っている事を分かるようにする。気功態に入っていても外部の刺激と体内の刺激により、気功態から外れる場合も結構あります。
「尋(覚)」は努力して気功態に入る事も分かり、邪魔な刺激があればなるべく遮断して、続けて気功態の中にいるように集中する事です。

「伺(観)」は気功態の中の微妙な感覚を注意深く観る事。気功態に入ったらいろいろな微妙な感覚(薄いが、より敏感)が浮かんできます。気功態に入っても人により感覚は異なり、同じ人でも様々な原因により、毎回同じ感覚を持つとは限りません。
「伺(観)」は現れたり、消えたり、動いている微妙な体内の感覚を直感で観察する事です。

「喜」は二つの意味があります。一つは練習しなくても練習の良さが分って喜ぶ。もう一つは気功態になると、身体が楽になり、微妙な感覚に入る時の喜びです。
「楽」はその喜びが薄くなった時の良い気持です。
「定」は練習の時、以上4つのポイントを定めて、外れないよう維持する事です。「定」は静態、或いは絶対的に静かな状態ではありません。人間の特性で、ある程度静かになると、邪魔な動きが出てきます。これを収め、やっと静かな状態になっても、暫くすると又、動きが出てきます。「定」というのは邪魔な動きが出れば、早目に分って、戻って、それを繰り返す事です。この「動く」と「静か」の繰り返しは常に以上4つのポイントの状態内の事ですから、煩悩は去って、心は静かで安定しています。

「尋(覚)」「伺(観)」は気功態になってからの意識的な活動であり、「喜」「楽」は気功態になってからの気持の動きです。
以上の5つのポイントを分らないで練習すると、体操だけになってしまいます。体操も素晴しいですが、気功はもっと体内の細かい気を活性化するという特徴があります。その特徴は以上の意識と気持の動きにより出てきます。
では気功態になって5つのポイントを体験してみましょう。

*以上の文章を理解する為に、気功態についてのべた文章を読んで見てください。

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17.「奇景八触」について

気功話第9番「意念を通して気を感じる方法について」の中で「奇景八触」という言葉を使いました。その中で「ひたすら座ってなるべく何も考えずにいると、いつか体が大きく感じたり、小さく感じたり、暖かい、或いは涼しいと感じたり、軽い或いは重く感じるなど、さまざまな感じが出てきます。」と説明していますが、これは正しく言うと「奇景八触」の段階の一部の現象です。今回はもう少し詳しく「奇景八触」という現象について説明したいと思います。

練習を始める時は最初に下腹部の中に集中します。中国語では「意守丹田」といいます。
集中する事は決して容易ではありません。なぜならば五感を通して入ってくる外からの刺激と、体内から浮かんできた雑念と眠気からの刺激が、丹田に集中する事を邪魔するからです。それらを乗り越えて下腹部に集中すると、気持が徐々にほっとするように穏やかになって、顕在意識もあまり働かず静かになって、体の存在感が薄くなり、そして八種類の気の感覚が生じてきます。「動、痒、重、軽、涼、暖、滑、粗」という八種類です。更に体の感覚が薄くなると、この八種類の感覚がもっと薄くなっても、それらを敏感に感じられるようになります。ですのでそれらの感覚を十六種類に分ける考え方もあります。

「八触」の気感が出てくれば、全身の気は活性化します。気が活性化すると体内の気が自然に整えられます。その結果、五臓の機能が強化され、健康になります。活性化された気には五つの性質があります。「金、木、水、火、土」という性質です。活性化されると「金」という性質の気は肺臓に戻って、「木」は肝臓に、「水」は腎臓、「火」は心臓、「土」は脾臓にそれぞれ戻ります。それを「五気朝元」と言っています。

下腹部から活性化された気が全身に広がっていけば、頭まで気が一杯になり、脳の中の気が活性化されます。それは「三花聚頂」といいます。「三花聚頂」とは、体の中の三つの宝物「精、気、神」が頭に集まってくる現象です。「三花聚頂」になると脳のエネルギーが活性化され、脳の機能がもっと働くようになります。そうすると現象の一つとして、目を閉じていてもいろいろな光や景色が浮かんでくるようになります。その現象を「奇景」といいます。

下腹部(下丹田)に時間をかけて集中すると「八触」という現象が起こり、五臓の機能が強化され、体が丈夫になります。これは「命(肉体)」の訓練になります。気が頭まで一杯になれば、自然に意識が頭(上丹田)に集中してきます。そうすると光が浮かんできて、宇宙に浮遊しているような感じがしてきます。それは「奇景」という現象で「性(精神)」の訓練になります。あわせると「性命双修」になります。下腹部に意識を集中する訓練と、頭に意識を集中する訓練は、それぞれに特徴はありますが、「命」を修行する事と「性」を修行する事は、非常に関係があります。「命」と「性」、「下腹部」と「頭」は繋がっていますから、「命」の中に「性」もあり、「性」の中に「命」もあります。

劉漢文先生は下腹部(丹田、密処)と頭(天頂、慧中)を非常に重視しています。仏教あるいは密教は道教とは異なりますが、仏教系気功と道教系気功は、お互いに重なって、繋がっている部分がかなりあります。「奇景八触」という言葉は道教系気功の修行の中で結構使われています。この「奇景八触」という現象は、大まかに言うと「四禅八定」の中の初禅までの現象です。
この言葉を説明する事で、少し違った角度から気功の練習の現象を説明しました。皆さんの参考になればと思います。

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16.四動功の気感について

「朱剛気功話」の第9番目で「意念を通して気を感じる方法」についてお話しましたが、今回は意念と気感だけではなく、動作も含めて四動功の気感について、もう少し詳しく述べてみたいと思います。初心者には役に立つと思います。

気感を得るためには音、色、味、感触などの刺激をなるべく受け取らないようにする事は基本です。築基功を練習する時、それらの刺激は少なくなると思いますが、体を動かしているので、動作からくる感覚は比較的強く感じると思います。ですから先ず第一歩は、体を動かす事から生じる感覚を少なくするようにしましょう。その為に劉先生は練習する時のポイントとして「円、緩、軽、柔」をあげています。

最初は基本の動作を覚えることから始め、次第に動作を意識しなくても、背骨の体操ができるようになるまで練習します。これはとても大事なことです。でないと何時までも動作の感覚が、イメージで意識(集中力)を動かす邪魔になるからです。意識しないで背骨の体操が出来るようになれば(「背骨を揺らす」から「背骨が揺れる」状態)、その段階から背骨が揺れる動作にあわせて、意識を動かすようにしていきます。

最初のうちは気が流れる感じがないのは当然と思って、イメージでいいですから、動作にあわせて意識(集中力)を動かす練習をします。例えば蛹動では、背骨の一つ一つに意識を廻しながら、背骨に沿って上げたり、下げたりしていくようにイメージします。
そのうち次第に「意識を動かす」から「意識が動いている」ような感覚になってきます。さらに練習を続ければ、他の刺激がもっと薄くなり、代わりに、あるようなないような気の流れの感覚が浮かんでくるはずです。これが気功態になっているという事です。

この状態では顕在意識はありますが、刺激が少ないのであまり活性化していません。例えば目覚める直前は寝ているような、意識があるような、夢うつつで、朦朧とした状態です(この状態ではリラックスしすぎると寝てしまうし、意識が覚醒すれば目が覚めます)。気功態とはこのような夢うつつで朦朧とした状態で、気の感覚もこの状態の中で感じる感覚です。

この段階で気の感覚が浮かんでこない場合は、雑念が多すぎる、或いは眠気がある、だいたいこの二つの事が邪魔をしている場合が多いです。気功の練習は殆どの場合はこの二つと戦うという事です。

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15.「初禅」について

気功の入門の段階を乗り越えれば、次に本格的な練習に移ります。
本格的な練習の最初の段階は「初禅」といいます。本格的練習といっても初めは先ず気泡のような身体の感覚が出てくるまで練習して、その感覚が出てきたら続けて維持して、練習をそのまま続ければ、1日か1ヶ月か、或いは1年間かかるかもしれませんが、気泡のように存在が薄くなった身体の感触が動きだします。さまざまな感触が出てきますが、まとめると八種類に分けられます。「動、痒、重、軽、涼、暖、滑、粗」です。これは「八触」といいます。

「動」は体が気泡のようになったあと、続けて練習していると身体が動くように感じられます。しかし実際には動いていません。
「痒」は静かになった時、時々体内に虫が動いているような痒い感触です。
「重」は背中と頭に重い石がのっているような感じで体が重苦しくなります。時々、重い感じと共に身体が小さくなるような感じもおこります。
「軽」は静かに練習していると、自分の身体が段々と大きくなったり、存在感がなくなって空中に浮かんだりするような感じです。
「涼」は身体が涼しくなって、頭から涼しいエネルギーが流れてくる感じです。
「暖」は全身の温かい気が活発になって、気泡のような身体がぽかぽか暖まった感じになります。
「滑」は全身の皮膚に艶がでて、つるつるになります。
「粗」は全身の皮膚がざらざらになります。

八種類の感触といっても実際に練習すると他の感触もおこります。しかも同じ「動」でも感触の強さにより、さらに細かく種類を分ける事ができます。「八触」は同時にではなく、交互にあらわれます。

「八触」が起こると同時に十種類の感覚「十功徳(じゅうくどく)」が出てきます。
この十種類の感覚は「空、明、定、智、善、柔、喜、楽、解脱、境界相応」です。

「空」は内在の感触が現れる時、身体の存在感があるけれども無いように感じられて、同時に感情の揺れと雑念がほぼ無くなります。
「明」「空」になった時のよい気持です。
「定」は以上の気持が安定して、あまり動揺のない状態です。
「智」は瞑想の良さを体験してその良さを身に付ける事です。通常の生活の中で五感に受ける良い刺激よりもずっと良いという事が分ります。
「善」はこの良さを体験して身に付けたら、心が自然に優しく、慈愛深くなります。 
「柔」は瞑想の良さが分ったら、世の中の事に対して、執着の気持が薄くなって、物事に対して柔軟性が出てきます。
「喜」はやっと良い方法を見つけた事が分かって、生まれ変ったような喜びを感じます。
「楽」は体内の感覚が起こる時の良い気持です。
「解脱」は五蓋が無くなる事です。
「境界相応」ここでいう境界とはこの瞑想の段階でおきてくる内在の感触と感覚の事です。相応というのは気持が境界と一致していて、揺れが全くない事です。

以上の十種類の感覚をまとめて五つの感覚「五支(ごし)」、「尋、伺、喜、楽、定」とも言います。
「尋」(覚ともいう)は初めてこの瞑想の良さが分る事。或いは普通の生活で感じる良さと全く異なる事が分る事。
「伺」は練習中におきた微妙な感触と感覚を観察する事。
「喜」は人生が生まれ変わったように喜ぶ事。
「楽」は瞑想の時におきた感触と感覚の楽しさ。
「定」は煩悩が去って、心が静かで、安定しています。
「八触」は交互で現われますが、「十功徳」、或いは「五支」は同時に起こります。
「初禅」という瞑想の段階は以上の「八触」、「十功徳」或いは「五支」が全部含まれている段階です。「八触」の感覚が全部揃っていないと完全な「初禅」とはいえませんし、「八触」だけあって感覚がなければ「初禅」とは言えません。揃っていない場合は入門の四段階の第四段階目にいると考える事も出来ます。

「初禅」が出来るようになる事は容易ではありません。瞑想を続けていても、時には1年或いはそれ以上かかる可能性もありますし、一生到達出来ない場合もあるでしょう。たとえ「初禅」が出来るようになっても、元の段階に戻ってしまう事も結構あります。
「初禅」を修得すれば、物事にこだわらなくなります。名利欲、威張る気持、自己中心等の意識が薄くなり、他者への思いやりが深くなり、怒る事もあまりなくなります。
「初禅」を修得しているか否かは普通の生活の中の物事に対する優しさ、謙虚さ、安定さから判断ができます。修得できていれば、その雰囲気は自然と周囲に伝わります。
これで「初禅」を説明しました。これから練習しましょう。

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14.内観健康法

「内観健康法」というのは常に体内を観る、体内に集中する事です。
最初、気功を練習する時は、功法に馴れるのに精一杯で体と気持の緊張感がとれていませんが、馴れてくれば練習の時に体内に良い感じを感じられるようになります。その後、続けて練習して常にその良さを感じられるようになると、練習しない時でも自然に体内の感覚を観る事になります。その体内の感覚というのは気持の感覚と体の感覚です。
気持を観るという事は、
1.落ち着いた時の気持の良さを探して、この良い気持に入る。
2.良い気持から離れていたり、悩み、怒り、落ち着かない等の感情があるとすぐ分って、自然に良い気持に戻るように整えます。

体を観るという事は、
1.リラックスして、体の楽な感覚を探して拡大します。
2.疲労、痛み、凝りなどの体の感覚がすぐに分って、自然に良い感覚を戻すように整えます。

気功の流派は数え切れないほど多くありますが、本当の気功ならば必ず意念と気持の訓練があり、その意念と気持の訓練を続けていけば、必ず以上のような現象がおこります。昔はその現象を内観と言いました。もっと強調するために私は内観健康法と書いています。劉漢文先生は禅密気功の功法を教える時に、常に昔の修行者達の言葉「念茲在茲常惺惺」を使って私達に伝えてきました。「念茲在茲常惺惺」とは常に体の中を見る、体内の気持と体の感覚を整えて気功の良い状態に戻って、その良い状態を維持するという事です。会報に書いた「調五事」、「棄五蓋」(次号に説明予定)という事も心と体を整える為の事です。

<p>「内観健康法」は健康にとって非常に効果的な功法です。流派によって具体的練習法は異なっていても、その流派に内観という現象があれば、必ず健康になります。「内観健康法」を行うには、練習の時、顕在意識を活発にしないで薄くする方向にもっていくべきで、そうすると普段の生活も徐々に、自然に、シンプルになり、性格も穏やかになります。では「内観健康法」を身につけるように練習しましょう。

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13.「築基功」と「持身法」

気功の瞑想、或いは禅定をある程度練習すると、ある現象がおこってきます。
全身の表面的な力を抜いただけではなく、奥深い部分の力と緊張感が総てなくなって、背骨で体を支えて座っているという感覚が良く分かってきます。

その時の体の感覚は大変リラックスして軽くて良い感じです。
意識も外部の刺激をあまり受けないようになって、体内のその感覚だけを感じるようになって、気持も揺れるのではなく静かに子供のように素直になります。そうすると自然にその良い感覚に集中して、とてもよいなあという気持になってきます。その良い感覚が分かれば長く続けて練習しても疲れません。
練習していない時でも、少し静かになればこの状態になりたいと思うようになります。その状態は「心身軽安」、或いは「持身法」といいます。

「築基功」は基礎を築く功法であり、練習すると「持身法」と同じような現象がおこります。「築基功」には静功と動功がありますが、まっすぐに座っている時、落ち着いて安定しているような感覚が浮かんできます。その感覚にそって練習を続けると「持身法」の方向に向かっていきます。
ですが初心者は体に、凝っている、重い、痛いと感じる部分などが結構ありますので、座ったままで練習を乗り越えるのは大変ですから、「築基功」では主に四つの運動(四動功)を対処法として行っています。

この四動功は単なる体操、運動とは異なり、心身共にリラックスして良い感覚を得るための動作です。劉先生は心の良い感覚を「無声で心の底から笑い、微かに笑い、朗らかに、素直に、愛慕するように、善良に、慈悲深く、そして人に布施する気持があるように笑う。体中のいたるところで笑う。」といいました。
又、劉先生は四動功の時の体の良い感覚を、四文字でまとめています。
「軽、柔、緩、円」です。

「軽い」というのは、力を加えず動いています。
「柔らかい」というのは、全身が硬くなくて柔らかく弾力があるように動いています。
「緩やか」というのは、動くスピードは均一でゆっくりと動きます。
「円やか」というのは、逆方向に動く時、円滑にまわして動作を気持によって千変万化することができます。この四つのポイントにそって練習すれば、一番心身共にりラックスした状態になれます。

この動作は自分の体にあわせて、二段階に分けて練習するほうが良いでしょう。
先ず、「軽、柔、緩、円」で動作を行うといっても、凝っていたり、痛い部分がある場合には、筋、筋肉を少し強く引っ張りながら動かします。強く引っ張るといっても、基本的には「軽、柔、緩、円」で動いています。そのまま練習すると凝った部分、痛い部分がなくなります。

なくなった後の四動功は筋、筋肉は引っ張らないように動かします。なるべく体に刺激がないように動きます。
劉先生は、四動功の時「その力を思うままに強くしたり、弱くしたりすることが出来る、と同時に千変万化する事」と言っています。
そのまま常に柔らかく動かすと体が非常に楽になって、意識は外部の刺激を受ける事はなくなって、その楽な感覚だけを感じますし、気持もその楽な感覚と一致しています。そうすると長く練習しても厭きもせず、疲れもしません。練習していない時でも、少し静かになれば動きたくなります。

電車に乗っている時に自然に動き出したり、四動功が好き、蠕動が好き、と言っている人達は、きっとその状態になっていると思います。この心身共に軽安の状態は「持身法」と同じだと思います。

瞑想、或いは禅定という「健身法」は少なくとも2000年以上の歴史があります。
多くの修行者達によって豊富な経験が残され、「持身法」はそのひとつです。それは瞑想の上級段階でないと体験できない現象ではなく、ごく初段階の瞑想で必ずおきる現象です。「欲界定」のなかの「粗住」の典型的な現象です。或いは瞑想の時の「入門」の現象です。「築基功」は基礎を築く功法であり、入門功法です。

「築基功」を練習する方向は伝統的に認められた方向に向かっていかなくてはなりません。或いは「持身法」という現象を門にたとえるならば、この門に入らねばなりません。「築基功」という入門功法は「持身法」という門に入るべきだと思います。

では練習を通して「心身軽安」という「持身法」を体験してみましょう。

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12.花粉症対処功法

3年前、私は花粉症になりましたが、10日間程、下記の功法を練習してなおりました。それ以降再発していません。この功法を練習した殆どの人の花粉症が軽減され、特にひどかった人に大変喜ばれました。来年の花粉は例年に比べると30倍といわれています。敏感な人は既に症状がでています。花粉症に悩まされている方は是非、ひどくなる前に今からこの功法を練習してみて下さい。つらい時期を一緒に乗り越えましょう。

第一段:座って「先天の気」を養う(約5分)
姿勢は座る姿勢から始めましょう。瞑想の時と同じ姿勢でゆったりと座ります。リラックスして静かに穏やかに・・・。
手はかさねて下腹部(丹田)におきます。男性は右手を上に、女性は左手を上にして重ねます。心を静かにして下腹部を内視します。静かに静かに観ます。手を置いた下腹部内部(つまり丹田)が次第に温かくなり、気が立ち上がるような感じがしてくるはずです。ふわーぁと気が上ってくるのが感じられます。その気を観て、上に上がるままにそのまま観ます。
大地から気が立ち上るのに似ています。陽炎のように、陽炎よりももっと淡く、明るく、澄明な光のように見えます。

雑念を切って、気持を落ち着けて。気持が昂ぶってきたり、ざわめいてきたりすると雑念もまたやってきます。気持を落ち着けて、穏やかに、静かに、立ち上る気を観ましょう。5分間位そのまま気が立ち上るのを楽しみましょう。
このように自然に満ちてくる気は、人間が本来持つエネルギーそのものです。人間が自然本来に持つ気を全身に行き渡らせることによって、自然本来の気の流れを回復し、元気を取り戻すことができます。
大地から自然のままに立ち上る気に例えて、これを「先天の気」と言います。

第二段:鳩尾の辺り(心窩)に集中(約5分)
気が満ちてきたら、鳩尾に集中して気を集めます。集中して、集中して・・・。呼吸に合わせて、息を吐くと同時に、喉から下に鳩尾部に向けて気を流します。鳩尾部に次第に気が集まり、充満してきます。鳩尾部が何か重くなったような感じになるでしょう。5分間位ゆっくりと気を集めます。

第三段:眼に持っていく(約5分)
鳩尾部に集め、溢れる気を両眼のところに流します。 息を吐くと同時に、喉から下へ流し(逆呼吸法)、鳩尾部を通し、そこから二つに分けて、胸を通して両眼に流します。鳩尾部に集まった気が、喉から流れ込む気で溢れ出してポンプで自然に押し上げられるように上に流します。

第四段:眼と鼻に集めて動かす(約5分)
次に両の眼と鼻に集中して、眼と鼻を観て意識して、そうすると重くなるとか痒くなると感じられます。眼を観たり、鼻を観たり、行ったり来たり。強く観て集中して、同時に気持ちがリラックスしています。強く観るというのは「武火」です。武火を使って患部の病気を攻撃します。(「武火」に対して、柔らかい気は「文火」です。第三段までは「文火」です。) 強く観ながら、眼のところで気を動かします。眼球でコントロールするような感じで。ゆっくりと眼の中を洗うように動かします。鼻に気を導きます。ゆっくりと鼻に集中し、気を動かします。鼻を洗うように・・・。鼻から眼に、眼から鼻に気を動かします。

第五段:蠕動しながら(座ったままで、約5分
ゆっくりと軽く蠕動しながら、眼と鼻に集中し、気を動かします。集中してゆっくりと動かします。眼の中を動かし、今度は鼻に集中し、鼻部で動かし、今度は眼に集中します。

第六段:蠕動しながら(立って、約5分)
次に立って蠕動します。立って軽く、ゆっくりと蠕動しながら眼と鼻に気を集めます。背骨と頭で眼と鼻の気を動かして軽く蠕動します。軽くゆっくりと、眼を観て、鼻を観て。鼻を観て、眼を観て・・・。

第七段:眼と鼻をマッサージする(約5分)
もう一度座ります。掌で眼と鼻に気を送って、気でマッサージします。掌で眼と鼻の中の気を導きます。ゆっくり、ゆっくり・・・。なめらかに、円を描くように。眼の次は鼻に、また眼に・・・。ゆっくりと気でマッサージします。

第八段:収功(約5分)
手を重ねて下腹部(丹田)におきます。静かに、軽く、眼と鼻を観ます。静かにやさしく観ます。「文火」です。脈を感じます。 下腹部を内視します。静かに、ゆったりと、静かに・・・。ゆっくりと眼を開けます。眼や鼻が軽く、すっきりとなっているはずです。気を活発化させることによって本来の気の流れを回復し、細胞を活性化させて花粉への抵抗力を高めるのが狙いです。微細の部分にまで気を流し、活発化させることで花粉に負けない力を回復させましょう。

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